父方の実家の祖父母は浄土真宗で、母方の実家の祖父母は日蓮宗だったっけな確か。
ウチの実家では、祖父母のみ熱心な信徒だけど、毎朝誰かしらがお仏飯やお茶をあげるときは手を合わせるし、亡くなった祖父の誕生日や命日やお盆や正月には線香をあげるな。
親鸞とか栄西とか歴史の授業で必死こいて覚えたけど、いわゆる『熱心な信徒』でなくても、そういった仏教的価値観はいつの間にか体に染み付いていると思う。それは初詣であったり、お盆であったり、「ご冥福をお祈りします」だったり、墓参りだったり、座禅だったり。初詣に行けば、ひしゃくで手を清めるし、神社では二礼二拍一礼、寺では二拍一礼。盆には提灯をぶらさげ、仏壇と神棚は同居する。テレビをつければ時代劇でも似たような状況は出てくるし、祖父母がやってるのを見ていていつの間にか覚えてしまっていたりする。線香の香りも平気。お賽銭という習慣にも何の疑問も感じない。「死んだヒトはみな神様になる」という考え方に違和感は感じないし、「先祖がいるから俺がいる」という考え方、「万物に神が宿る」「万物に感謝する」という考え方に何の疑問もない。
多くの日本人の宗教観は、極論で言うと『ムラ社会』なんだと思う。なんていうのかな。自分の信じる宗教以外はどんなときであれ排除するっていう思考は無いヒトが多いと感じる。その場その場に合わせた対応をする。逆に、宗教家のほうでも、「可能であれば×××(その宗教に適した念仏)と唱えてください」と言うにとどめることが多いと思う。祖父の葬儀ンとき(浄土真宗の和尚さん)はそうだったし、永平寺(曹洞宗)を見に行ったときもそうだった。母方の祖母(日蓮宗)からもらった、いわゆる『有難いお話』は、浄土宗のものだったし(笑
逆に、キリスト教バプテスト系の高校へ行ったが、他宗教のことについては全然言及が無かった(気がする)し、新興宗教のカルトっぷりなんかは、完全に『邪教』扱い。
結局、受け入れる気持ちがあるかどうかだと思う。それは『宗教屋が他教を受け入れる気持ちがあるか』および『自分が(その場に合った)宗教を受け入れる気持ちがあるか』だ。その有無が、気持ち悪い宗教かそうでないか、気持ち悪いヒトじゃないかそうでないかの分かれ目だと思う。
創価やエホバがキモいのは、そういうところだろう。候補者名を書く練習をやったり、教えに従って断固として輸血を断ったり、そういうところがキモい。どの政治家を選ぶかは、普通は公約で決めるモンだし、生きるための輸血を宗教に支配されるなんて考えられない。臨機応変さが微塵もないところが『カルト』と呼ばれる所以だろう。
宗教は『興味ない』が、その場に合わせて『受け入れている』。これで良いんじゃないかな。
脱線するが、そんなに親しくないヒトとトークするとき(キャバ嬢や営業等)、『政治』『宗教』『野球』の話は禁止というのは常識だ。これも結局、『公明キチ』や『民主キチ』、『巨人キチ』『アンチ巨人キチ』『トラキチ』など、他者を受け入れることのできないキチガイが多いからだと思う。逆に俺なんかは、気心知れた連中とトークすると、普通にこれらのネタが出る。
まぁ、何にせよ『受け入れる気持ち』があるかどうか、自分の生活に密接に関わってこない(※家族がカルト入信しちゃった等)限りは、この原則で動いていけるっていうヒトが増えると、日本に住む日本人としては住みやすい事この上ないと思う。
あと、堂々とヒトに「天罰が下る」とか「不幸になりますよ」とか言うヒト(および宗教)は、こっちも全力で願い下げだ。恐怖や脅迫から入る宗教とか怪しい洗脳以外の何者でもないよ。
そして、プログラマ的には『ブラインドタッチ教』や『FF教』、『vi派とEmacs派の戦争』も極めてくだらないことだと思う。コーディングスタイルや愛するツールなんてヒトそれぞれで良いじゃないか。各プロジェクトごとに合わせる心の広さや、各人の裁量に任せる余裕を見せるヒトのほうがよっぽどカッコイイわ。 プロのプログラマに必要なのは、上の要求を期限内に達成できるかどうかだ。宗教や戦争なんて、些細なことだよ。上が宗教や戦争を仕掛けてきたら、それはそれで受け入れるか、あるいはご愁傷様と言うしかないかな(苦笑
ラベル:宗教