2010年04月14日

Winnyについて思うこと

まぁ今更なんだけど。

痛いニュース(ノ∀`):【Winny】金子「情報流出はユーザーの責任」ていうのがあって、まぁ部分的には正論であるかなーとも思うんだけども。この話が問題になっていたころは、ダウンロードに関する法律が緩かったので、ダウンロード自体には問題なかった。アプリケーションはインストールした時点(規約に違反した時点)で、動画などのコンテンツは公衆送信状態にした時点で違法となる。ただまぁ、どちらも違法であることを証明するのは著作権者側だったので、ほぼスルー状態だったわけだが。で、いわゆる「にいつこうた」に対するネラーの冷たさについても疑問は感じるのだが、本題ではないので置いておく。

俺が気にしているのは痛いニュース(ノ∀`):【Winny】等身大シリコンドール製造販売会社の内部資料や顧客情報流出のような事件について。これは「ケツ毛バーガー」も同じことだ。シリコンドールを買った人の個人情報や「ケツ毛バーガー」の個人情報は、永遠にWinnyネットワークを彷徨い続ける。彼らはWinnyを使っていないし、非難される云われもプライバシーを暴かれる云われもないのに、だ。金子さんやWinny擁護派の方々は、このあたりどのように考えているのだろうか。あるいはどのような対策を取るべきだと考えているのだろうか。『人のプライバシーが本人の同意なしにネットワーク上を彷徨い続けることを可能とするソフト』が適法なアプリケーションとして存在して良いと考えておるのだろうか。

最初に紹介した痛いニュース(ノ∀`):【Winny】金子「情報流出はユーザーの責任」痛いニュース(ノ∀`):「国民一人一人が対策を。Winny使わないのが一番」 安倍氏、呼びかけについては、Winny擁護派と思しき人達がいっせいに金子さんを持ち上げ安倍を批難しているが、果たしてそれで良いのだろうか。気がついたら自分が被害者になっていたらどうするんだろう?と思う。

痛いニュース(ノ∀`):【Winny】金子「情報流出はユーザーの責任」について、部分的には確かに正論だと書いたが、その一方で、痛いニュース(ノ∀`):【Winny】等身大シリコンドール製造販売会社の内部資料や顧客情報流出においては、誰が責任を取るのだろうか。金払ったりクビ切ったりして済む問題ではないだろう。「にいつこうた」人の責任、などと言う人がいるかもしれないが、じゃあその責任をどう取るのか? 取りようがないだろう? ケツ毛バーガーさんは、日本では常に晒し者なんだぜ。俺だったら発狂して死んじゃうよ多分。ならばそのようなアプリケーションを適法なソフトとして普及させて良いのか? と俺は思うのだ。
ラベル:winny 個人情報
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2010年04月08日

ストレスの種類

最近、俺が感じるストレスには3種類ある、と考えている。

1つ目は「肉体的ストレス」。これは至ってシンプル。家族を外に遊びに連れて行く、たくさん歩く、寝ない、などによって生じるストレス。このストレスが高まると、「寝たい」と思うようになり、電車の中などイスに座っていると居眠りをするようになる。このストレスを解消するには「寝る」が最も良く効くようだが、座っているだけでも多少は回復する。

2つ目は「精神的ストレス」。一般的に胃にくるヤツだ。遅刻してはならない、仕事しなければならない、締め切りを守らねばならない、仕事中に居眠りをしてはならない、などによって生じる、ルールに縛られることによって感じるストレス。このストレスが高まると、しなければならないことをギリギリまでしないようになる。このストレスを解消するには、ルールに縛られない、即ち「遊ぶ」が最も良く効くようだ。ただし、さほどルールに縛られない柔軟な遊びを指す。仲の良い者とのおしゃべりや飲み会などが該当する。

3つ目は「脳疲労ストレス」。これは、俺がプログラマだからかもしれないが、ロジックを考える、バグの原因を脳内ステップ実行する、設計を考える、などによって生じるストレス。このストレスが高まると、何も考えずにボンヤリしたくなる。このストレスを解消するには「ボンヤリする」が最も良く効くようだ。何となく雑誌をペラペラ立ち読みする、何となくネットサーフィングする、などが該当する。


少し前から主張しているのだが、「働く」ことで生じたストレスは、「寝る」「休む」ことで解消できるとは思わない。「働く」ことで生じたストレスは「遊ぶ」ことで解消できるものだと考えている。「仕事」には、締め切りや細かいルール等々、とにかく縛りが多い。これは「精神的ストレス」に該当すると思う。これは「寝る」ことでは解消できないと思うのだ。

もし、「寝る」ためだけに家に帰っているサラリーマンの方がいたら、少し考えてみてはいかがだろうか。働いた分とまでは言わないが、1日1〜2時間は遊んだほうが良いと思うのだが、いかがだろうか。
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2010年03月17日

トラッシュボックス全読破

ここ何ヶ月かかけて、深沢さんのトラッシュボックスを全読破した。前にもどこか書いたが、様々な文献(とその提示)をソースとして訴えてくる人というのは本当に凄いと思う。俺はそんなに政治やら歴史やら(深沢さんがブログのネタに良くされているもの、という意味)には興味ないし、そもそも本をあまり読まない。ゆえに、深沢さんの意見には気付かされることが多い。また、論理の破綻が少なく、説得力に溢れる点は、読んでいて非常に興味をそそられる。やはり、一次ソースへの造詣の深さというのは、重要であると感じた。

以下、俺にとって興味深かった点などを挙げていく。当然、知識に乏しい俺の稚拙な感想などクダラナイのだが、書きたいので書く。俺がチラシの裏に向かってションベンやザーメンを撒き散らすのは俺の自由だ(えー)。なお過去ログは4年分もあるので、個別にトラックバックなどはしない。URLと引用、それに対する感想のみ載せる。

(補足。自分トコの過去ログには
この文書は、賞味期限を過ぎている。コメントするのは野暮ってモンだ。
などと書いているのに、人様ンとこの(恥ずかしいものがあるかもしれない)過去ログに意見するとは何事か!! と言われるかもしれない。仰るとおりで反論の余地はない。困った。)
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2010年02月11日

社会人としての処世術

プログラマとしての能力と、人に物事を伝える能力は、まったく別の話である。しかし得てして、人に物事を伝える能力を持った人のほうが社会では好まれるものであると思う。


あなたは、うるう年がいつ来るか正確に知っているだろうか?

普通の人ならば、こう答えるだろう。「4で割り切れる年はうるう年だ。(A)」

小さな視点で見ると、Aは正解である。

しかし大きな視点で見るとAは不正解だ。

ちょっと詳しく知っている人ならば、こう答える。「4で割り切れる年はうるう年だ。しかし、100で割り切れる年は除く。ただし、400で割り切れる年ならばうるう年だ。(B)」

要約すると、400年、800年、1200年、1600年、2000年、2400年はうるう年だが、1700年、1800年、1900年、2100年、2200年、2300年はうるう年ではない。

小さな視点で見たAがなぜ許されるかというと、俺らが1900年を経験することはもう無いし、2100年まで生きている可能性も限りなく低いからである。4年に1度、と小学生レベルの覚え方でも問題は無い。しかし、それはうるう年の真の正解ではない。真の正解はBなのである。


さて、それでは、「なぜこのような複雑な式(Bのこと)なのか?」と訊かれたら、あなたはどう答えるだろうか。

もっと具体的に状況を説明しよう。あなたは今、クライアントと打ち合わせをしている。そのプロジェクトは、カレンダーに関するプロジェクトだ。カレンダー、いやさ暦のあらゆる仕様を把握し、正確に実装しなければならない。そのとき、うるう年の話になった。クライアントは、Aが正解だと思っていたようだが、真の正解はBである。あなたはクライアントにそれを伝える。クライアントは新たな知識を得、いたく満足されている。あなたへの評価も高まったことだろう。「いやぁ、○○さんは博識ですねぇ。でもどうしてそうなってるんですかね?

あなたは、どう答えるのが正解だろうか。


もっともマズい答えをここに1つ挙げる。それは「そういうものだ」「そうとしか説明のしようがない」「これ以上の説明のしようが無い」といった答えである。

AもBも、1つの公式である。アインシュタインだかフレミングだかグレゴリオだかコペルニクスだか知らないが、天体を観測し、そこからバカな我々一般人にもなんとか理解できるよう、一般化した公式である。しかしだ。公式さえ覚えてしまえばそれで良いのか? 本当に永遠に不変なのか? これ以上の知識を得ることは許されないのか? いやそれより何より、クライアントの些末な要求に応えるのも、下請けの使命なのではないだろうか。

ちょっと話が逸れたな。上記の回答例がなぜダメなのかというと、回答者が質問者の意見をバッサリ斬り捨てているからである。知る必要があるかどうかを決めるのは、回答者ではない。質問者である。ましてや回答者は仕事を貰う側。媚びへつらえなどとは言わないが、婉曲に断るのが、社会人としての正しい回答であろう。

上記の場合、「うーん、私も分からないですねぇ」などとお茶を濁すのが正解の1つである。これが、日本に生きる社会人の処世術というものだ。

ちなみに、もうどうでもいいのだが、上記の正しい回答は、「1年は、正確に数えると平均365.2425日(365日と5時間49分12秒)なので、4年に1回のうるう年ではビミョウに狂うんです。だから、400年に97回にすると、3320年に1日ぐらいの誤差ってことでまぁいっか、となったんです。3320年後に起こる1日分の誤差は、『そのころには地球が変わってしまっているかもしれんし、後世の賢い人が考えれば良くね?』ってことで、放置ってことになったんです。」となる。詳細はWikipediaを参照されたし。(閏年グレゴリオ歴


きちんと社会人としての教育を受けた人には常識的なことだが、ことプログラマの世界や、ゲーム業界などに行くと、どうもこのような社会人としての処世術を知らない者が多い気がする。「そういうものだ」「そうとしか説明のしようがない」「これ以上の説明のしようが無い」などと答える者を見かけることは多い。

事実を端的に伝えることももちろん必要だが、相手の知識量と心情を慮り、クッション言葉と適切で分かりやすい例えなどを交えて、相手が求める回答に近い回答を導き出す技術が社会人には必要なのだと思うのだが、いかがだろうか。
ラベル:説明
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子供の心拍数

ユニフォーム姿::子供の脈拍の平均(正常値)
とても参考になりました。
- 脈拍(心拍)(1分間の脈搏数) :
- 幼児起きているとき: 100〜220
- 幼児眠っているとき: 80〜200
- 子供3ヶ月〜2才起きているとき: 80〜150
- 子供3ヶ月〜2才眠っているとき: 70〜120
- 子供2〜10才起きているとき: 70〜120
- 子供2〜10才眠っているとき: 60〜90
- 子供 10才〜成人起きているとき: 55〜90
- 子供 10才〜成人眠っているとき: 50〜90
- よく鍛えられている運動選手: 40〜60
ラベル:心拍数
posted by 小川 at 01:22| Comment(2) | TrackBack(0) | チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

説明責任は説明者にある

■小沢の話ではない。


■俺の現状。

今、俺は正社員ではなく、助っ人要員としてプロジェクトに関わっている。おそらく今後もしばらくはこういう形でプロジェクトに関わっていく。だから、ムダないさかいは極力避けたく思っている。だから、できる限り黙っている。何か思うことがあっても基本的には黙っている。だが、今日の出来事はよっぽど口を挟もうかと思った。そのぐらいヒドかった。結局、口を挟んではいない。理由は後述する。


■今日の出来事。※多少、脚色してある※

Photoshop上では非常に綺麗なグラデーションの出ている画像が、実機に載せると非常に汚くなるということに、ディレクターが気付いた。プログラマに「何か気付く点があるかどうか」を訊いたところ、プログラマは「画像の形式が4444(よんよんよんよん)だから」と答える。意味が分からない風のディレクター。「4444とは何か?」と訊くとプログラマは、「1つの色につき4ビットしか使えない」と答える。ますます意味が分からない風のディレクター。「全然意味が分からない」と答え、更なる説明を促す。プログラマは「アルファが4ビット、他の色が12ビットの合計16ビットしか色が使えない」と答える。全く理解できないディレクター。「ちょっと××さん(デザイナー)のトコ行って説明してもらえます?」と促すと、プログラマは、「これで理解してもらえないんだったらもう説明のしようがない」と言い、説明もデザイナーの元へ行くことも拒否。デザイナーに直接説明して貰うことを諦めたディレクターは「要するにパレットが多すぎるってことですか?」と訊くと、プログラマは、「まぁそういうことです」と答え、さらに続ける。「ただ、どんな色でも使って良い訳ではない」と。それを聞いて疑問再燃のディレクター。「え?何色(なにいろ)が使えるんですか?というか、何色(なんしょく)使えるんですか?」と訊く。プログラマは、「16ビットカラーが使える」と答える。『カラー』とついて、ディレクターは不思議な顔をしながらも、デザイナーの元へ行った。

ほどなくして帰ってくる。「16ビットカラーって要するに何色(なんしょく)ですか?」 この質問に対してプログラマはこう答える。「電卓で計算してみてください」と言ってプログラマ、Vectorから関数電卓か何かのアプリに辿り着き、そのURLをディレクターのPCへ送る。ディレクターは、そのソフトをダウンロードし、動かす。電卓の説明の会話は全く覚えていないので省略するが、紆余曲折を経て、そのプログラマともう1人のプログラマに、俺だったら「小馬鹿にされてる」と感じる笑いを浴びながら、ようやく65536色だという『答え』に辿り着く。

で、ディレクター、ようやくデザイナーの元へ行き、答えを伝える。

カンの鋭いプログラマなら気付いたかもしれないが、多分、この問題はまだ解決していないと思う。再燃すると思う。理由は後述する。


■こうあるべきではないか?

俺の以前所属していた会社では、「相手に説明して理解を得られた無かったとき、それは説明者が悪い」という風潮があった。社長が企画屋で、細かいプログラム事情やグラフィック事情が理解できない人だった。「俺がスクリプト書くから、RPGツクール作って」「できるの?できないの?」「できるの?じゃあやって」「できないの?じゃ、どうだったらできる?」極めて真っ当で一般的な社会人であると思う。否定するなら対案を、対案も出せないような突拍子もないことなら、その旨を(社長に)理解できるように説明する、そういう技術が普通に要求される会社だった。

俺自身もそれは正しいと思い、相手の知識レベルに合わせて会話することを心がけていた。車に例えると分かるディレクターや、無双シリーズに例えると分かるデザイナーなど、相手に合わせて使い分けていた。ちょうど具体例を思い出したが、miracleさんあたりはサッカーに詳しいので、サッカーに例えてみたりしたこともあった。


■雑感。

今日の出来事は、正直、ハシから全部ツッコんでいっていたら半日ぐらいかかりそうだが、まぁなんだ。このプログラマは何なのかと思った。自分の知識の範囲ですべて答えて、理解を得られなかったら「理解できないアンタが悪い」と突っぱねる。これはダメだろう。人としてどうかは知らないが、少なくとも社会人としてはダメだ。微に入り細に入り、とまでは言わないが、理解を得られるよう手を変え品を変え説明するのが社会人のあるべき姿ではないかと思う。

このプログラマが、人に説明する際に、説明を受ける側の立場に立てないことは、ディレクターは認識しているらしい。俺も説明を受けながらそう感じていた。つーか初日にそう思った。それにしても今日のはヒドかった。説明が下手なのは今に始まった話ではないが、更にひどいなと思ったのは、このやりとりに対して口を挟む人物が誰1人いなかったことだ。「今日の出来事」で出てきた「もう1人のプログラマ」ってのも、社員ではない。某社から出向で来ている方だ。そう、社員で口を挟む人物は誰1人いないのだ。これには驚いた。いやもう驚かないか。初日からそうだったし。

俺からすると、このやりとりは最初から最後まですべてオカシイ。マトモなディレクターが可哀想だ。まぁ、自分の保身のために見捨てた俺が偉そうな口を叩くのもどうかと思うが。(後述)


■口を挟まなかった理由。

俺は、今回の仕事については、そのプログラマよりも知識が下である。事あるごとに質問する身分だ。もちろん、俺の質問への回答もだいたいこんなカンジなのであるが、それでも一人でウンウン唸るよりもヒントが見え隠れするので訊いた方が幾分かマシだ。彼は俺より年下だが、今回の件に関して俺が口出しし丁寧に説明することで、彼のチンケなプライドを粉微塵に粉砕して、その結果俺と彼の関係がギクシャクするのは困る。俺の質問への回答がより難解なものになるのは困る。そのような打算が働き、ディレクターを見捨てた。これは非難されても仕方のないことだ。


■再燃すると思う理由。

減色のくだりが説明されていないから。カンの良いデザイナーなら、説明しなくても分かるだろうけど、「16ビットカラーの意味が分からない」デザイナーがそこに気付くだろうか。


■俺だったら。

今日の出来事の一番最初の、ディレクターの質問(Photoshop上では非常に綺麗なグラデーションの出ている画像が、実機に載せると非常に汚くなるということについて「何か気付く点があるかどうか」)、こう答えるだろう。

「赤が16色、緑が16色、青が16色の、合計4096色しか使えませんよ」と。さらに付け加えて、「じゃあその『赤16色』ってのは具体的に何色(なにいろ)かと言うと、Photoshop上では赤要素って、0〜255の256色が使えますよね?使えるんですよ。んで、そのうち16色しか使えないんです。0〜7は0、8〜15は1、16〜23は2、と8色ごとに減色されて同じ色になってしまうんです。だから、例えばこの中央の白から薄い水色になっている部分。ここも、青256色のうちの、0〜23を使って綺麗なグラデーションを描いているのだとしたら、減色されて3色になってしまうんです。あ、『減色』って分かりますかね?大雑把に言うと『近い色を同じ色にしちゃうこと』なんですけど」と、実機に映った汚いグラデーションと、Photoshop上のグラデーションを見せながら説明するだろう。アルファの説明は難しいが、「ただし各色につき、16段階の半透明ができます。」ってトコだろうか。まぁ、こんなカンジで終わりだ。これでも(デザイナーが)理解できないなら、更に何か考える。


まぁ、そんなこんなで今日あったことを書いてみた。

少なくとも、出先にいる人のうち2人は俺のこのページの存在に気付いていても不思議ではない。1人には「ワイワイワールドパスワード解析作った」と言い、もう1人とはTwitterで相互フォローしている。見られると俺の立場は・・・・・・うーん、悪くなるかもしれませんね。まぁ、それはそれで仕方がない。

某社の方々、俺は基本的に余所者なので、御社の空気や社風に対して雑談レベルで色々なことを言っても、仕事場でアレコレ直接口出しはしません。もし俺のこのブログを見つけても、まぁ「小川(HN)という人物はこう思ってるんだな」と思って下さい。

見て下さったついでに、こういうのも俺の思ってることです。貴社に絶対的に足りないと私が思う点です。
http://twitter.com/ogawa_sankin/status/7787323344
http://twitter.com/ogawa_sankin/status/7787345213
もちろん、優先されるべきは貴社の方針ですし、俺自身、こういったことがきちんとできている訳ではありませんけどね・・・(;´Д`)
ラベル:説明
posted by 小川 at 23:02| チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

主語・視点の転換

まず俺が最初に目にした記事はコレね。
「新年早々ひどいことに」母娘は前日ディズニーランドに… 大田区の3人死亡火災 - MSN産経ニュース

 新年の住宅街に爆音が響き、炎が3世代が暮らす家を飲み込んだ。東京都大田区で3日早朝に起きた住宅火災。火元となった桜木節子さん方は仲の良さが評判の家族だった。孫の夏海ちゃんは前日に東京ディズニーランドに行き、幸せな正月気分を味わったばかり。近所の人は「新年早々こんなことに」と絶句した。

 ディズニーランドに一緒に行ったのは母親の裕子さんと、保育園時代の同級生の女児らだった。同級生の祖父(72)は「楽しそうに出かけたのに、まさか翌日にこんなことになるとは」と驚いた様子。小学校の同級生の女児(9)は「皆から『夏海ちゃん』『なっちゃん』と慕われていた。木登りが得意で、2週間前も公園で一緒に遊んだばかり」と言葉を失った。

 近所の住民らによると、裕子さんは沖縄で結婚生活を送っていたが、夏海ちゃんの出産を機に実家に戻った。認知症の節子さんを介護しながら、夏海ちゃんを育て上げた。

 裕子さんの中学高校時代の同級生、玉山智子さん(48)は「穏やかだが、とてもしんの強い人だった」。家族ぐるみの付き合いをしていた近所の石田照代さん(72)は「仲の良い家族で、夏海ちゃんを宝物より大切にしていた。新年早々、こんなひどいことが起こるなんて…」とうつむいた。

日本人が書く日本語の文の特徴として有名なのは「受け身」「主語の喪失」があるのね。これは、小栗左多里&トニー・ラズロ著のダーリンの頭ン中で触れられているケースが分かりやすい。
この草花は、昔からあるとされていますが、「最近は見ない」とも言われており、早急な確認が求められております。
「あるとされている」
「言われている」
「求められている」
…誰に!?

人々なのか
学者なのか
あるいは会社や団体なのか
また主語は I なのか They なのか
これ見たとき、正直、違和感は感じなかったけど、確かに「誰に?」と言われてみれば明確な答えは出てこないわ。せいぜい「著者」か「俺(読者)以外の誰か」という曖昧な答えしか出てこない。


さて、俺はこれ以外にも、日本人が書く日本語の文の特徴として「主語の転換」「視点の転換」があると考える。「主語の転換」の例は、古い読者にはおなじみの、コレだ。
自閉症児者の「こころ」を自閉症児者自身が探し求める場ーー高機能広汎性発達障害(高機能自閉症・アスペルガー症候群)への心理療法的接近からーー辻井正次

近年、自閉症(自閉性)をスペクトル(連続体)として捉えるべきだという見解が専門家レベルで主流となっていても、日常の臨床では自閉症に関してというと、幼児期のこだわり行動や多動などの症状が華やかな時期の早期療育や治療に関して、あるいは知的な遅れを伴う自閉症児の治療教育については多くが語られるが、知的な能力の高い(高機能の)自閉症について、特に彼らの青年期以降について関心がもたれるようになってきたのは近年になってからである。
一発で読めたら、アナタは凄い。(細かい固有名詞の意味は置いておいて、だ。)

この文章の、俺なりの読解は過去ログにあるので参照して。本題とは関係ないので省く。

結局、この文章がなぜ混乱するのかっつーと、「専門家レベルで主流となっていても、」までの主語は「専門家」、それ以降は「医者」が主語となっているから。句点が来る前に主語(視点)が変わるという、高度な日本語を駆使してある(皮肉)。高校の卒業を賭けた追試をお情けで通過した程度の俺には読み取ることのできない難文(皮肉)。

ということで、文中で主語(視点)が変わるというのは、非常に高度な文学技術だと思う(くどいですが皮肉)。

さて、それでは冒頭の産経新聞の記事を読み解いてみようか。
「新年早々ひどいことに」母娘は前日ディズニーランドに… 大田区の3人死亡火災 - MSN産経ニュース

 新年の住宅街に爆音が響き、炎が3世代が暮らす家を飲み込んだ。東京都大田区で3日早朝に起きた住宅火災。火元となった桜木節子さん方は仲の良さが評判の家族だった。孫の夏海ちゃんは前日に東京ディズニーランドに行き、幸せな正月気分を味わったばかり。近所の人は「新年早々こんなことに」と絶句した。

 ディズニーランドに一緒に行ったのは母親の裕子さんと、保育園時代の同級生の女児らだった。同級生の祖父(72)は「楽しそうに出かけたのに、まさか翌日にこんなことになるとは」と驚いた様子。小学校の同級生の女児(9)は「皆から『夏海ちゃん』『なっちゃん』と慕われていた。木登りが得意で、2週間前も公園で一緒に遊んだばかり」と言葉を失った。

 近所の住民らによると、裕子さんは沖縄で結婚生活を送っていたが、夏海ちゃんの出産を機に実家に戻った。認知症の節子さんを介護しながら、夏海ちゃんを育て上げた。

 裕子さんの中学高校時代の同級生、玉山智子さん(48)は「穏やかだが、とてもしんの強い人だった」。家族ぐるみの付き合いをしていた近所の石田照代さん(72)は「仲の良い家族で、夏海ちゃんを宝物より大切にしていた。新年早々、こんなひどいことが起こるなんて…」とうつむいた。

第1段落。登場人物は「節子さん」。「孫の夏海ちゃん」がいることから、「節子さん」は「夏海ちゃんの祖母」であることが分かるよね。登場人物は2人いるが、この段階で第3文目に「火元となった桜木節子さん方は」と初めて人物が出てきているので、普通に考えてこのあとも「節子さん」視点で読み進めることになるわけ。

ところが第2段落。「母親の裕子さん」と来る。「祖母である節子さんの母親」登場。ここで頭にハテナマーク。更に読み進めると「保育園時代の同級生の女児」と来る。意味が分からない。誰の「保育園時代の同級生」「の女児」だよ? そして次は「同級生の祖父」と来る。「女児の同級生の祖父にあたる人」なのか、「同級にあたる祖父」なのか。というか血縁関係の祖父の方? 節子さんの旦那? もうメチャクチャ。


もちろん、冷静に何度も読めば理解できるよ。

第2段落は、「夏海ちゃん」視点なのよね。「夏海ちゃんの母親の裕子さん」「夏海ちゃんと保育園時代からの同級生の女児」が登場人物として浮かんでくるやろ。そして、「夏海ちゃんと同級生の祖父(72)」が出てくるってわけ。

以上が真相。


なぁ、この文章ヒドくない?

第1段落の第3文の視点は「節子さん」。
第1段落の第4文の視点は「節子さんの孫の夏海ちゃん」。
第1段落の第5文の視点は「節子さん宅の近所の人」。
第2段落の第1文の視点は「夏海ちゃん(ただし省略されている)」。
第2段落の第2文の視点は「(夏海ちゃんの)同級生の祖父 (カッコ内は省略されている)」。
第2段落の第3文の視点は「(夏海ちゃんの)小学校の同級生の女児 (カッコ内省略されている)」。

第2段落の第1文で、省略されている主語「夏海ちゃん」を見出せなかった場合、それ以下の文章がチンプンカンプン元気よくになってしまう。

第2段落の主語が「夏海ちゃん」であることに気付かせるキーワードは、第1段落第4文にある「東京ディズニーランド」。「孫の夏海ちゃんは前日に東京ディズニーランドに行き」というくだりをしっかり覚えておかないと、第2段落の第1文の「ディズニーランドに一緒に行ったのは」と繋がらない。俺はこういう記事を目にしたとき、「登場人物」は気にするし、旅行して楽しい時間を味わったことは理解する。しかし「具体的にどこに行った」とかは意識の外だ。なぜならば、どこに行っていようとそれは結局「幸せが一転大惨事」に繋がる一部分でしかないから。「どんな幸せを味わっていたか」を具体的に覚えておく必要など無くない? ディズニーランドだろうが動物園だろうがゲームセンターだろうがどこでも良いし気にする必要無くない?


ということで、高校をお情けで卒業して底辺に近いゲームプログラマやってる俺にとって、産経新聞は、理解し難い高度な文章を使っていらっしゃる新聞、ということです。正直、朝日なんかのほうがよっぽど読みやすいよ。まぁ朝日は、文章は真っ当だが内容が破綻しているのでアレだが。産経は文章から破綻しているので読み辛いっつーことですわ。

あー、長文書いたら疲れた。
ラベル:国語 産経新聞
posted by 小川 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月01日

ただ神社的な答えが知りたい

ムラ社会で生きるなんてバカバカしい、と言うことはとても簡単だ。だが、俺は長男で、いずれは実家に戻る(親の面倒も見ねばなるまい)身、朱がムラ社会ならば赤くならざるを得ない。

俺個人が非常識者としてバカにされる分には諦めもつくが、俺のせいで俺の家族や親までもがバカにされるのは我慢ならん。我慢ならんと言っても暴力を揮うわけにも権力を行使するわけにもいかない(そんな権力ないしな)。ましては俺のせいで家族までもが村八分になることなどとても我慢できない。俺は地元が大好きで、ご近所さんも大好きで、そことの関係をわざわざ壊したいとは思わない。ご近所の皆さんの多くは顔見知りだし。もちろん過干渉などはしないが、いわゆる田舎の普通のご近所づきあい程度は維持したい。


六曜という、どうやら江戸時代ぐらいからの歴史しかないものがある。明治だか昭和だかのタイミングで、政府は「そんな迷信を信用してはならん」というようにふれ回ったようだが、結局現代まで生き残っている。有名なのは「結婚式は大安に」「友引に葬式はしない」などだ。

んで、一般的に・・・といっても俺の記憶だが、神社仏閣に参る際には「仏滅・赤口は避ける」というのがある。某神社のHP内でも同様の記述があったので、一部では市民権を得ているのであろう。少なくとも小川家の実家では市民権を得ている。


では問題。「初詣」と「仏滅・赤口は避ける」は、どちらが優先なのだろうか。


教えてGoo!とかでは「そんなん気にするな」「あなたの気持ち次第」などという答えがあったが、そういう答えは不要。Twitterでも長らく呟いていたし、グーグル先生にも伺ったが、俺が欲しい答えは出てこなかった。

俺が欲しい答えとは何か。例えば俺が「はさみ持ってる?」と聞いたら、「はい」か「いいえ」で答えていただければ良い。日本人らしく空気を読んで、俺が何も言わないのにはさみを出す、などといったことは必要ない。(プログラマ脳・アスペ脳の話は割愛)

俺が欲しい答えとは「初詣優先」「仏滅赤口は避ける優先」「どちらも間違いでは正しくはこうこうよ」のいずれか。

ちなみに、俺は、こうかな、と予想した
if( 新年初参りか? )
{
 行け
}
else if( 今日は仏滅or赤口か? )
{
 避けれ
}
else
{
 好きにせい
}
また、@kitamurakenji氏は、以下ではないかと予想された。
if( 新年初参りか? )
{
 if( 今日は仏滅or赤口か? )
 {
  避けれ
 }
 else
 {
  行け
 }
}
else
{
 好きにせい
}
かな

誰か明確な答えとその根拠となる一次ソース持っていませんか。



追記。
念のため書いておく。俺自身は、このようなことに興味は無い。もっと言ってしまうと神社仏閣詣ですら興味がない。事実、独身時代は初詣どころか例年例年いかなかった。例外を挙げると京都時代。このときは行った。「俺が行かないせいで親が悪く言われる可能性」を消すために。もちろん、京都拉致組の中にそんな人はいないが、まぁ参拝で俺の気持ちが落ち着くなら簡単なモンだ。閑話休題。初詣に行くにせよ、あるいはしばらく経ってから行くにせよ、根拠が欲しい。「仏滅赤口は避ける」と「初詣」とを両立させるorさせない神社側の根拠が。答えの通りに実践するかどうかはまた別の話。

今年、俺が詣でようと思っているのは、家族がいるからだ。俺自身にバチがあたる分には一向に構わないが、家族まで巻き込まれるのは困る。それを避けるために詣でたいと思う。しかしながら、六曜的に今日は「先負」である。俺の最寄りの神社的に、先負の日はあまりよろしくない

さて俺は、俺の不義理に家族が巻き込まれないようにするために、「先負」を重視すべきなのか、それとも「初詣」を重視すべきなのか。


どなたか答えを知りませんか。

重ねて申し上げるが「気にするな」「好きにせい」という答えは受け付けていないのでそのような回答は誠に勝手ながらご遠慮願いたい。
ラベル:初詣 六曜 神社
posted by 小川 at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月24日

感動とは何か

(12/24 夜中のテンションで書いた記事に加筆修正&メガテンSJの話を加筆)

プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達を見終わった。伊集院がつぶやいていたように、確かにある種のイヤラシサというか、わざとらしさというか、回を重ねるごとにそういうものは感じる。しかし今回、俺の置かれている状況と重なって、そういった点に目がいかなかった。いつものように斜めに構えて見るカンジではなく、真剣に見入っていた。

感想としてまず言いたいのは、「自分の今置かれている状況と共感するところが多数あり、物凄く心動かされた」ということだ。登場する野球選手がどのような処遇になったかは一通り把握しているが、それでも的場が合格したシーンではグッと来た。俺は的場同様、妻がおり、子供がいる。その中で無職となり、二度と前職の世界に戻れないかもしれないが、一抹のチャンスを掴むために、努力を重ねる姿、そして、合格したときの喜び。妻の笑み。・・・重なるところが多すぎて涙がこぼれそうになった。ホント、涙もろくなったなぁ・・・


ノンフィクションやドラマ、あるいは小説やゲームなどを見て、感動するとはどういうことだろうか。俺はその中の1つに、追体験・類似体験のようなものがあると思う。今回のドキュメント番組は、俺にとって間違いなくコレだと思う。

先日、Twitterでako_bayさんと話していたときのこと。ako_bayさんは、以下のようにつぶやいた。ako_bayさんゴメン、大量に引用いちゃった。テヘッ。
下田麻美さんの言ってることは決して大げさじゃない。やよいが『チキンライス』 http://kashinavi.com/song_view.html?15860 を歌うってだけで反則級だ。 http://yaplog.jp/asaponmax/archive/2324 |P|
人は年齢を重ねると涙もろくなると言うが、今はそれを理解出来る。『チキンライス』の歌詞が発表された当時に大して感動しなかった自分が、今は泣いている。年齢を重ねれば自分の気持ちや境遇を理解してやさしくなれるって事なんだろうな。 |P|
@ogawa_sankin まあまあ取り敢えず読んでみて下さいよw http://kashinavi.com/song_view.html?15860 |P|
母子家庭に育った自分は、子供が家庭の経済を心配するせつなさのようなものは少なくとも共感していた。 |P|
@magicalsammy 子供心に、「贅沢しちゃイケない」って気持ちと「でもちょっと良いものを食べたい」って気持ちがあって、でもそれを止められない親の気持ちとか思うとね。子供がメニュー表の値段を気にする事の辛さと、子供の頃に値段を気にしていた事を親が今知ったらと思うと… |P|
「良いもの」って言うか「ちょっと高いもの」かな。贅沢したい気持ちが俺にはあった。 |P|
やよいの凄いところは、自分の家が貧乏である事は認識してるが決して不幸だとは思っていないところ。原因が父親にある事もわかっているが「誰が悪いか」ではなく「自分に何が出来るか」を考えて行動しているところ。しかも自分の為ではなく家族の為に行動している。 |P|

これは思うに、ako_bayさんの過去に体験した事柄と、松本の詞、やよいなるゲームのキャラ?の設定、そのキャラが歌うということが、ako_bayさんの過去の扉をこじ開けたのだろうと思う。

真ん中あたりで、俺に「読んでみて下さいよ」とあり、詞を読んでみた俺の感想は、
「チキンライス」おいらは無感動でしたゴメンナサイ。 *Tw*

リアル知人はご存じかもしれないが、俺は食事に対してこだわりがない。ako_bayさんは、俺が3食そうめんを喰って生きていた隔離病棟時代を覚えているだろうか? 京都では、3食中2食、同じコンビニ弁当を食べていた。(残り1食は、同じく京都へ連れ去られた女性スタッフや、アレックスさんが作ってくれていた。) 京都に連れ去られた中で俺より若いスタッフは、いつもコンビニへ行くときに声をかけてくれていた。「コンビニ行ってきますけど、何か買ってきましょうか?」 俺は終盤、こう答えていた。「いつもの。」 (390円以上で最も安い弁当1つ、ウィダーインゼリーの緑のやつ、プロビオヨーグルト) そのくらい、食に対してこだわりがない。同じものを食べ続けても平気だし、そうでなくても平気だ。

んで、俺は子供の頃、家族で食事に行くことはもちろんあったが、「好きな物を食べていい」と言われても困っていた。嫌いな物は「ほうれん草」だったが、好きな物は特に無かった。正確に言うと、「ほうれん草以外ならなんでも好き」だ。だから「好きな物」と言われても困った。とりあえず、量が多いヤツを頼んでいたように記憶している。

ゆえに、俺は「チキンライス」に対しての感動が無い。外食、およびその予算に関して、親に気を遣ったりはした記憶が無い。


一方、今回のドキュメント番組のほうは、今の俺の置かれている状況にジャストフィットする。山田秋親については少ししか触れていなかったのでさほどの感動は無かったが、的場はヤバかった。結果は残せなかったが「全力でやった、悔いは無い」と、自分に言い聞かせるように繰り返す的場。ただひたすら待つ日々。無職になっても支えてくれる身重の妻。まだ「テストを受けに来い」と言われただけなのに、安心した顔を見せる妻。一歩前進は嬉しくも、まだ何も決まっていないと喜びを噛み殺す的場。番組スタッフに人見知り発動して妻にしがみつく2歳の子供。妻(あるいは番組スタッフ)の前ではカッコつけて大喜びしない的場。

的場の思いや奥様の思いが、手に取るように伝わってきた。


話は飛ぶが、俺は子供の頃、「人の死」というものに出会っていない。死体も見たことがなかった。初めて出会ったのはごく最近だ。両親、兄弟、それから祖父母にいたるまで、2年前に亡くなった祖父以外、まだみんな生きている。俺が子供のころからずっと生きている。幼い頃、「人の死」に触れていないため、今、人の死に出会っても極めて淡泊だと思う。今度こそ危ないという母からの連絡を受け、急遽実家へ戻って見舞った祖父は、次の日の朝には亡くなっていた。初孫である俺と、初ひ孫である俺の娘の写真を見て、大きな声を上げて喜び、力強く俺の手を握った祖父だったが、誰にも看取られることなく夜中病院で静かに逝った。

遺体を一晩ウチに置き、線香を絶やさぬ寝ずの番は交代で務め、通夜、葬式の段取りは、長男である俺の父とその妻こと俺の母が中心となって行った。出棺のとき、そして火葬場で焼き場(っていうの?)に入るとき、周りの涙声に影響されて涙が出たが、それ以外では特に悲しむというほどのことは無かった。ただ、祖父は逝った。娘に名前をつけてくれた。もう2度と会えない。それだけだった。

もし、子供の頃に、人の死を経験していたら、もっと違ったかもしれないが、今の俺では、概ねこのような感想だった。祖父でさえこの程度の感動なのだから、ゲームや映画で人が死んでも全く感動しない。「そりゃ、人が死にゃあ悲しいよ。だけど、作り手は、死以外で感動させてみろっつんだよ」などと思っていた。昔から思っていた

メガテンSJでは、(もうネタばれしても大丈夫だろうが一応隠す。反転させて見て下さい。)ゼレーニンがマンセマットに感化されていく様子が描かれる。セクターBで出会い命を助けられ、Cで彼の部下たる天使を賜り、D(実質B)で再会し、Gで遂に洗礼?を受け天使?になる。んで俺は、Gのシナリオ中に起こるJ部隊の反乱時に「血を流さずに解決したい」と言い出したあたりから違和感を感じていた。え? ゼレーニンっていつの間にそんな天使に感化されちゃったの? と。実験の結果を重視する「科学者」が、そんな簡単に神の御使いに感化されるモンなの? と。セクターCで衝動買いの話をふられたときに「私は計画的なほうなの」みたいな返事を返したゼレーニンはどこ行ったの? と。

結局、感動するかどうかってのは、その人の体験に依存するんだな、と思った。「チキンライス」や「人の死」や「神(の御使い)の奇跡」には感動しないが、「水戸黄門」や「はじめてのおつかい」や、「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」には感動する俺がいる。


で、俺の仕事の話に繋げるのだが、ゲームってのは、突き詰めると「感情を動かされるかどうか」がキモだと思っている。喜び・怒り・悲しみ・快感・ストレスetc. その感情を、作り手と遊び手とで共有できるかどうか。共有できる遊び手が多いかどうか。ブランド力以外にも、売れる要素ってのは一杯あると思うけど、突き詰めてそういうことを考えている作り手って、ほとんど見かけたことが無い気がする。まだまだ色々考えることあるなぁ・・・。
ラベル:感情 テレビ
posted by 小川 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月16日

森の熊さん

ウチの娘には、それこそ乳児のころから、家内が「森の熊さん」を歌ってあげている。まぁ、家内の童謡レパートリーが少ないこともあるのだが、まぁとにかく歌ってあげている。最近では、夜、布団で寝かすときに必ず歌ってあげる曲の1つになっている。

先日から、家内と娘は、第2子出産のため実家に帰っている。こないだ俺もおじゃましたとき、娘は「みんなのうたDVD」の「森の熊さん」を楽しそうに見ていた。寝る前に家内が歌ってあげる「森の熊さん」を好きなときに聞けるのだから楽しいのだろう・・・と思いながら、なんとなく俺も見ていた。




普通に声をあげて笑ってしまった。これはシュールだ。シュール過ぎる。面白過ぎる。2歳児にこの面白さが分かるのかどうかは定かでないが、物凄く面白い。「みんなのうた」、侮れない。
posted by 小川 at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | チラ裏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする